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五時に起きハミガキしながら雨戸を開けていると西となりの家のほうからゆっくりとやってくる薄汚れた白黒の大きなブチ猫と目が合った。
がまるで知らん振りでわが家の西南角に置かれた縁石をさかんに嗅いでいたが小便をしゅっと吹き付けると悠然と私の前を横切って今度はわが家の東南角の縁石に小便を吹き付け裏の駐車場へと歩き去っていった。
面魂といいよごれぐあいといいどうみても飼猫ではなさそうだ。
この頃何度かこの付近でお目にかかっているからわが家はすっかりヤツのテリトリーの一部になってしまっているにちがいない。
「お前の領分はどんなだい?」と聞いてみたいものだが残念ながら猫のコトバがわからない。
たぶん猫には猫の言葉があるはずだ。
発情期には愛欲の塊となってみゃあみゃあ、みゃあみゃあ一晩中呼び合っているし、時にはそれが死闘に発展する。
私が子どもの頃家にいたミーはそんなある朝片目を抉られ耳を食いちぎられて還ってきたものだったがその後随分長生きしたような記憶がある。
蛙にもミミズにも杉の木にもお魚君にも粘菌様にもコトバはあろう。
生きていると云うことはコトバがあるということなのだと最近思うようになった。

連続の中に生じた間、切断、無がやがて分節を生じコトバとなる。
だが、コトバはコトバの秘密を語れない。
コトバの秘密であるこの切断、無を知るには一旦徹底的にコトバを廃除するしかないのではなかろうか。
大人は虹を七色と言う、だが幼子が描いた虹は実に自由自在である。
神秘主義がみいだすカオスとは幼子の目に映じた虹の様なものだと思う。
「実存は本質に先立つ」と誰かが言ったのはこういうことかもしれない。

はじめにコトバありきとして物語りははじまる。
だがやがて物語がコトバを支配しはじめるのだ。
支配とは自由の抑圧である。
自由の証であるはずのコトバが物語によって抑圧されてしまったときコトバはあまりに無力である。
なあ、ネコ君よ!
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by nhsmt | 2013-06-02 22:57