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連休

だからというわけでは全然ないのだが
新緑でも見るかと
曇天下、早朝より桧原の三頭山(1531m)ヘでかける。
雨こそ降らなかったがほぼ視界ゼロの濃霧のなか
沢から馬の背のような尾根へ出ると北斜面から冷たい霧が濛々と吹き上げてきてメガネは真っ白毛髪はびしょびしょ。
さすがにこの天候では山に来る物好きも少なくすれ違った人も十人はいなかった。
この標高では新緑にも一月早すぎた。
だが、今にも芽吹かんとするブナ林の尾根歩きはこの上なく爽快だった。

日本政府に入国拒否されたネグリのメセージに
「過渡期は終わった」という認識が表明されていたが
このところそれを感じること多し。
議論に出口がないのはすでにステージが変わっていることの証なのである。
テレビで馬鹿な大人が「自由か平等か・・・・どちらをとるのか!」などとヒステリックに叫んでいた。
それを聞く若者たちは、「自由がなければ平等なく、平等なければ自由はない!」と言いたかったに違いないのだが誰も言わなかった。
年寄りのヒステリーを悄然と見つめるばかりであった。
原点にもどることはなかなか難しい。

たとえば神を創り出したのは人間である。
だが人間は世界を神の被造物として表象する。
このような超越と転倒は人間の特異な資質であり、ある意味ですばらしい能力でもある。
というのも言葉の力もここにゆらいするにちがいないからである。
いやむしろ初めに言葉ありきなのだ。
であるならトートロジーと二者択一の無間地獄を突き破るのもまたことばである。
問題なのはGODではなくCAPITALなのではあるが・・・・・。
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by nhsmt | 2008-04-27 15:20

なりにけるかも

のらぼうを食べたのは青梅に住むようになってからのことだが、
こいつはまったく春を食っているような気分にさせてくれる。
蕗の煮物、ふきのとうを味噌であえたもの、のらぼうや菜の花のおひたし、グリーンピースご飯などなど、そのうち竹の子もでてくるだろう。
桜は先日の暴風雨でだいぶ散ってしまったが菜の花や土の香りで
野や山や世界はやたらに春になりにけるかもなのである。

丸山真男の「歴史意識の古層」という小論を読む。
「つくる」「うむ」「なる」という三つの基本動詞の視点から
記紀の創世神話の基底に「なる」という自動詞が一つの通低音としてあるという。
そこに日本的なるものを見出そうとしているようなのだ。
キリスト教やら中国の古典などと比較しながら論を進めているのだが
あまり成功していないように僕には思える。
歴史というものは遡れば遡るほど系統樹の幹のようにしだいに幹の数は少なくなり
やがて一本の太い幹になる。
歴史を遡行することによって民族のオリジナリティにいたるというのはそれ自体が歴史的物語なのではあるまいか?

ユダヤ教神秘主義者のブーバーに「われと汝」というのがある。
彼は「われとなんじ」と「われとそれ」は根源語であるという。
世界そして存在は「われとなんじ」という関係において一挙に出現する。
やがて「なんじ」という認識が生じ最後に「われ」が成立する。
すなわち、世に自意識ほどたよりないものはないということになる。

記紀の創世神話における「なる」はブーバーの「われとなんじ」という関係の成立と同じなのではなかろうか?
存在と世界の成立は自動詞としてしかありえないのである。
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by nhsmt | 2008-04-12 18:02