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マルエン全集

国立から中国人の留学生が2名来店。
河南大学の先生に依頼されてマルエン全集の品定めに来たのである。
ケイタイで本国の先生と連絡を取りながら中国語のあのハイトーンでなにやら大盛り上がり。
相当値切ったあげく、定価の領収書をお願いしますとちゃっかりしている。

一ツ橋にはマル経の先生がまだ三人もいるらしい。
中国はまだマル経が主流だが次第にアメリカ仕込みの経済学が盛んになってきているとか言っていた。
何冊かの本とともに総額十数万円現金で払って行った。
なかなか勉強家だし金もあるようだ。

靖国の問題をそれとなく聞いてみたら、
あれは政治家の話で我々には関係ないと至極まっとうなご返事。

「分断して支配する」というアングロサクソンの植民地支配の古典的手法は今でも生きている。
というかもともとこれしかないのだ。
これによって辛酸をなめてきた国々がここにきてばたばたと和解しているのは、手を突っ込みたくてうずうずしているものの存在を知っているからだ。
中国・ロシア、中国・インド、東南アジア、中南米の国々などなど。
隣接する国や民族や宗教はどこでも反発する感情を抱いてきたものである。
それをことさらに煽り立て利用することで支配してきたもののおかげでどれだけの血が流されてきたのだろう。
人々は少しは賢くなっているのである。
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by nhsmt | 2005-05-31 19:21

メランコリー

メランコリーは心的現象だと考えられがちだが、
次第に生理現象だと思うようになってきた。
というよりも心的過程と生理的過程、心と身体は分けて考えるべきではないという東洋的な考え方のほうがこのごろ納得できるのである。
心の病は身体から、身体の病は心から攻略すると意外とすんなりやり過ごせることもある。
己の心の中に何らかの原因を見いだそうとするのは百害あって一利もない。
トートロジーの土壺にはまるだけである。
心の底のさらに奥、心と体とが接する穴からエネルギーの粒がポツポツと珊瑚の産卵のように湧きだしてくるまでただじっと待つより無い。
この穴に近づくには言葉は禁物である。
ゲーデルが言ったように、自己言及型理論は正確な解を得られないのである。
心のことは身体に聞け。
己のことは他者に聞け。

ナルシストがメランコリーに陥りやすいのは己に夢中になりすぎて自家中毒を起こしてしまうからなのだ。
現代人が皆メランコリーなのは現代人が皆ナルシスに取り憑かれているからなのだ。

鬱病で死ぬ人が大勢いるというが、そんなはずはない。
リストラされたり、破産したり、このご時世では人間が追いつめられる理由はいくらでもある。
だが、そのために人間が鬱になるわけではない。
理由を己の中に見いだそうとする傾向が心を鬱にしてしまうのだ。

メランコリーは心の風邪のようなものだった。
そして今でもそうなのだ。

「ももさん」いいねえ!
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by nhsmt | 2005-05-26 18:40

雑誌

本屋の雑誌コーナーで平積みになっているものが
どれもこれも「中国特集」で唖然とする!
「文春」「中公」「諸君」などなど、いまどきこんな雑誌を本気で読むものなど居ないだろうからどうってことはないのだが、現下のマスコミの知的状況はほとんど末期的である。
情報の確度を見極める冷静もなければ、それを分析する見識もない、ましてや今後を見とおす方向性や時代状況に翻弄されない思想なんて上等なものは微塵もみいだせない。
ただただエモーショナルにわめき散らしているだけである。
後になって恥をかくのが関の山といいたいところだが、恥を知るほどの人間も居ないのだろう。

口角泡をとばして近所のババアが喧嘩しているのと全く変わらない。
むしろババアに失礼だ。

要は、次々に生起する状況の変化にエモーショナルにそして次第に激しく反応しているだけなのである。
このような人種を或る意図された方向へ誘導するのはきわめてたやすい事なのだ。
かつてはこの方法を権力者が市井の人々にたいして用いたのだった。

だが、今ではわれわれのほうが利口である。
世界を舞台にして行われている田舎芝居をわれわれはほとんどじかに見ることができるのである、冷静さと己の思想さえ持っていれば・・・。

日本人の矜持が平和憲法と京都議定書の精神にしかないことは庶民ならばだれでもわかっている。
分かっていないのは何かに追い立てられている者達である。
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by nhsmt | 2005-05-18 17:45

過去のない男2

この映画が脳みそにこびりついていて離れようとしない。
極限的に抑制された感情表現はフィンランドの国柄なのかなとも思ったが、
おそらく監督の演出によるものなのだ。
終わり近く、食堂列車で寿司を食べながら日本酒を飲むシーンがあった。
前後の文脈から孤立したこのシーンはこの映画における演出の主旨を暗示しているに違いない。
つまり、日本人である私が異様なものと感じた「抑制された感情表現」は
実はフィンランド人のこの監督が日本に見いだしたものだったのだ。
浮世絵が印象派に影響を与えたように、小津映画が海外で評価されているように・・・。
この監督はすでに日本人が忘れてしまった方法に熱い内実を与えて作品を作り上げている。
この内実については映画を観て頂けばよい。
表現の過剰にうんざりしていただけにこれは衝撃である。
古い日本へのノスタルジーではなく、
抑制された表現がどれほど威力があるかということに驚くのである。

あちこちコメントを見てみたが、
とんちんかんなものしか見つからなかった。
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by nhsmt | 2005-05-13 17:38

映画

二十歳前後のころ映画を見すぎたためか、
以来何十年もの間私はからっきし映画を見ない人間だった。
ところが、二三日前テレビのチャンネルをあちこち変えていたら、
たまたまCATVの映画専門チャンネルで異様な雰囲気を発する映画に出くわし、
次第に引き込まれて最後まで見てしまった。

「過去のない男」というフィンランド映画だった。
後日ネットで調べてみたら、2002年度カンヌのグランプリだっらしい。

当初感じた異様さはおそらく感情の表出を極限的に抑制したところから来ていたのであろう。
抑制された表現がこれほど強力なものであることをはじめて知った。
そういえば日本の「能」に全く何の関心もなかった私だが、「能」とはそういうことだったのか・・・?

昨日つまらぬことで夫婦喧嘩を始めてしまった。
が、このことをふと思い出し「抑制された表現」戦術を実践してみた。
確かにこれは非常に強力である。

もっと早く会得しておくべきだった・・・!
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by nhsmt | 2005-05-12 18:22

新聞

このところ、きっかり朝五時半に目覚める。
歯磨きをしながら雨戸をすべて開け放ち、
七時まで新聞2紙を読む毎日だ。

今朝の朝日新聞に高橋源一郎による島尾敏雄「死の棘日記」の書評があった。
「死の棘日記」はまだよんでいないのだが「死の棘」の印象からかってに飛躍して、
高橋源一郎の「ここに記されたような行いを僕は「愛」とよぶ」なる表現にいたく共感した。

「通常、我々は、そのような行いのことを「愛」とよぶのである。」ともあった。

だが、通常人々が「愛」と言う言葉をそのよう用いることはほとんどないのだ。
「そのような行いが可能なのは「愛」があるからだ」という判断が普通なのだ。

スタンダールいらい、前触れもなく突然、愛は結晶しそして人間の行為にとってアプリオリな理由を構成すると考えられてきたのではなかったか。
このような傾向を仮に愛における自己愛的偏向だとすると、
愛には近代の精神がそれを激しく否定することから出発した殉教的、他者愛的傾向(アガペ)が他方にある。
だがこれはどちらも愛の疎外された形態なのだ。

「死の棘」はそれを生きることを可能にするほどの愛があったのだという愛の証の物語ではないのだ。
どこを探してもそんなアプリオリは見つかるまい。
生きられた地獄があるだけだなのだ。

高橋は「この本には、「至上」の苦しみが充満している。それにもかかわらず、読後感が明るい・・」と書いている。
僕はむかし島尾の文体に不思議なユーモアを感じとても勇気付けられた記憶がある。
「死の棘」を近代の苦しみと表現した友人もいたが、
むしろ僕は、苦しみのかなたへ至ろうとする生きられた意志の記録なのだと思っている。
愛の全き形態とは「他者への意志」なのではないか。
「意志」は「行い」でなければならない。

人間にとっての本当の苦しみは「孤独」だとぼくは思っている。
「他者への意志」だけが希望をもたらすのだ。
人間は孤独であってはいけない。
人間を孤独にしてはいけない。

世界はあまりにも「孤独」にみちていないか?
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by nhsmt | 2005-05-08 16:41

「半島を出よ」を読む

こいつあ、めっぽうおもしろい、
生きていてよかった。

大情況を分析しようとする執拗で明晰なる精神、
人間の心の不可思議を理解する繊細と優しさ、
このプラスとマイナスの二つの磁力がその極限値において衝突し発する激烈なるプラズマ。
これだけが出口のない抑圧的な「今」から魂を解放してくれるのだ。

小説作法としては当たり前のことだろうが、実現できることはめったにないような気がする。果たしてこれは小説か?と思う向きもあるかもしれんが・・・、どうでもいい。

養鱒場主人の「父に会う記」もいい。
人間は苦しくて悲しくてせつなくていっぱいの時は笑うんだな。
浪速男には吉本的イノセンスのDNAがあるんだろう。
そういえば、だいぶ前にテレビで談志師匠と赤塚画伯が「バキューン、バキューン!」とかいって、ガン(癌)マン対談とかやっていたけど、
まだ生きてるかな?
世の中には凄い人がいっぱいいるんだなモシ!
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by nhsmt | 2005-05-01 15:12