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商人

九州へ帰ってしまった同業がまだ東京にいたころ。
古本屋でありながら、
自宅の近くに、羊羹で評判の行列のできる和菓子屋があるとかで
夫婦そろって朝早くから行列してはその羊羹を買い
それをオークションにだすと飛ぶように売れるんですよとニコニコしながら話していたのを思い出した。
その時は、そんな暇なことしてないで本業に精出せよとかなんとかいったような気もするが、
存外、商売の喜びというものはこの話にも十二分に読み取れるようにおもう。
紀伊国屋文左衛門のような商人の成功談とて喜びの質や構造において少しも変わるわけではないのだ。
人を夢中にさせるに足るものがそこにはある。
己の着眼で仕入れをし運良くそれを誰かが買ってくれたときの「やったぜべいびー!」
私もそれに取り付かれた一人だ。

このなんでもない喜びを人類が知るようになったのはいつごろなのか?
マルコ・ポーロの時代かいやいやそんなものじゃないだろう、もしかすると文字や文明の歴史よりももっと古いのかも知れぬ。
物と物との交換をそのまま商売と考えるのは相当に無理があるが、人類史上に交換という行為が出現してそう遠からぬころ交換そのものを媒介する人間が現れたとしても不思議ではない。
商人の出現は市場の成立と同時であったと考えてもよさそうな気がする。

自由市場という作業仮説が着想されたのはアダム・スミスの時代であったのだろうが、
その時代でさえ商業は富や権力と結びついたどこかしらいかがわしいものと思われていたようだ。
古典派経済学は重農主義、重商主義との論戦から生じてきたものであって労働を価値の源泉と考える。
その意味では商行為を労働の一形態と考えても問題はないはずなのだが・・・。

商行為が蔑みの対象になりがちであった背景にはそれが共同体の安寧にとってなんらかの危険をもたらしかねないという懸念が背景にあるからではなかろうか?
鎖国政策にはその危険を排除すると同時に国家が貿易のもたらす莫大な利益を独占するという意味がある。

商行為は共同体にとっての他者を前提にする。
それは新世界への想像力とアコガレを触発する。
シルクロードの商人、大航海時代の船乗り達を駆り立てた熱情を富への動機だけで説明することは不可能だろう。
商行為はその深いところで自由という観念と通定しているのだ。

だが自由市場というのは未だに永遠の作業仮説であってこの地球上に一度も実現したことなどないのである。
by nhsmt | 2006-12-24 21:25
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