灼熱の夕暮れ

駅からのかえり道で私の5メートルほど先を男子高校生とおぼしきごくありふれた格好の二人組が歩調をあわせてシャカシャカ、シャカシャカとあるいていた。
このくそ暑いのに何でそんなにぴったりくっついているのかと思ったら、二人は一言もしゃべらず黙ったまま手を握ったり離したり絡めたりしながらひたすらに歩いている。
私はその光景を何の違和感もなく「フーン!」とひどく感心して眺めながら5メートルほど後を歩いていたのだった。

「我思う、ゆえに我あり」というのは確かにそのとおりだ、
だが年をとってくると「我」がこのおぼつかない身体の上に乗っかってかろうじて生きながらえているにすぎないのだと言う事実を徹底的に思い知らされる。

二三日まえ女房に付き合って、テレビでフランシス・ベーコンの絵の前で踊る田中泯をみた。
その時、叫んだような田中泯の顔がベーコンの絵に描かれた若い男の顔とうりふたつだったことに驚嘆した。
私はベーコンの絵のあのゆがんだ顔はデフォルメだと考えていたのだ。
ということはデフォルメされる前の普通に認識された顔と言うものがありそこに画家が何らかの変形を加えたのだと考えていたということである。
だがそうだとしたらそんなものをあれほど完璧に己の身体で表現することは出来ないのではなかろうか。
彼は何時間もじっと絵を見続けそしてその事を考えに考えそして踊る。
ベーコンが見たように自分も見る、それなら不可能ではないのかも知れぬ。
踊っている本人は自分を見ることは出来ない。
だがそれを見ている他者に肉薄することはできよう。
だとすれば、描かれた画はデフォルメではなくベーコンには確かにその様に見えていたのだ。

犬を連れて散歩をしている人を見かけるといつもふきだしそうになる。
なんてうりふたつなんだ彼らは!

私の娘は小さい頃から似顔絵の天才だった。
実に不思議なものだな!
[PR]
by nhsmt | 2013-08-08 21:41
<< 旭日 朝 >>