古本屋のエチカ

古本業者たちの市場は伝統的に「交換会」と言われている。
私はそこの運営に携わる経営員というのをやっているのだが、
このところ物故されて廃業した業者の在庫が丸ごと出品されるケースが続いている。
膨大な量の古本の山をしかるべき束にしばって入札しやすいように仕分けをし陳列していくのである。
十年来の知己の方々ばかりだ。

この作業を続けながらチベットの鳥葬を思った。
臓物をえぐり、関節をばらし、骨を砕いて髄を露出する。
最後に頭蓋骨を砕いて脳を燦々と輝く陽光にさらすのだという。
やがて純白の骨粉はヒマラヤの雪に同化するだろう。
そこにはいかなる怪異もない。
この一部始終にはこのうえなく透明で揺るぎない合理性が貫いているに違いないのだ。
それはチベット高原の生活が創った論理なのだ。

物故者の品物を仕分けしながら、これは古本屋の「土に帰る」だなと考えてみたが
どうもしっくりこない、それは農民のエートスというものだろう。

藤原新也の「メメント・モリ」に「人間は犬に喰われるほど自由である」というのがあった。
面白いレトリックだなとは思っていたがこれは存外古本屋の生き様・死に様のことではないのかとおもいついた。

海幸彦と山幸彦が出会うところ、共同体と共同体との間に発生した「市場」が「自由」という言葉を生んだのだと私は思っているのだ。

ギリシャの都市国家の中心にはアゴラという広場がある。そこは市場であり劇場であり議場である。
ギリシャの都市国家群と対立していたペルシャ帝国のダリウス大王はギリシャ人は広場に集まっては互いに騙し合う事に夢中になっていると言って嘲笑したとヘロドトスは書残している。

都市を創り出したのが自由への情熱なのか都市が自由への情熱生んだのか・・・。
いずれにしろ、因果応報、輪廻転生の永劫回帰から離脱したいと人々は考えたのだ。
共同体の論理から一旦離脱したところに自由の論理が発生する。
「人間は犬に喰われるほど自由である」由縁であろうか?
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by nhsmt | 2012-11-23 00:55
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